私は昭和26年8月、現在の日本橋人形町(当時芳町)に年子の二人兄弟の長男として生まれました。 小学校はすぐ裏の東華小学校(現在の日本橋小学校)を卒業して開成中学、開成高校、早稲田大学理工学部を卒業後、縁あって東京医科歯科大学歯学部へ進むこととなりました。 現在、人形町笠原歯科の他に、3医院を開設しております。私の父方の祖父は長野出身で、関東大震災までは両国橋の袂で、当時珍しかったスキヤキ店を盛業しておりました。 震災で焼失した後、肉の卸を始め、その後堀留町、昭和9年に現在の人形町へと移ってきました。 祖父は30歳を過ぎて勉学を志し中央大学を卒業しましたが、また一方、営業の才に恵まれ、当時東京で一、二を競う肉の卸商となりましたが、長年抱いていた皇室御用達の夢を果たすことなく40歳半ばで他界しました。 後継ぎはまだ幼く、太平洋戦争も激しさを増し、店の者は徴兵され、空襲による延焼を防ぐ為、店は強制取り壊しとなり、閉店やむなきに至りました。 | -院長生後1ヶ月 人形町にて- |
戦後長男だった叔父は祖父の出身地長野に戻り、次男の父はこの人形町の地で菓子の卸業を始めましたが、地方に出した支店が原因で倒産しかかり、私が2歳、弟が1歳の頃、母を残し家を出たきり帰ってきませんでした。 幼子二人を抱え菓子の小売に卸にと頑張る母の姿に、債権者の方々も応援してくださり、店を続ける事が出来たそうです。 母は我慢強い人で、父の事で家族に愚痴をこぼしたりする事は一度もありませんでした。 | -院長4歳 人形町にて- |
そんなしっかりものの母でしたが、私が小学校5、6年の頃からか心臓を患い病院の先生に無理をすると後3年もつかどうかというような事を言われたとか。 母が友人に話しているのを聞き、子供心に、一生懸命頑張れば母が生きていてくれるに違いないと自分自身に言い聞かせた事を覚えています。 私の高校2年の期末試験が終わった翌朝、母は帰らぬ人となっていました。前日まで一生懸命働いていた母でした。 そして母の通夜で物心ついて初めて父なる人と会いました。 それまで父の存在を意識せずに育てられてきたせいか、親しみも湧かないかわり、憎しみも感じませんでした。 | -院長15歳 人形町にて- |
母が逝去し16年の歳月が流れ、その間時折の父からの手紙のみで会うことはありませんでした。 その父が突然、蔵前の診療所に生まれてまもない私の長女の為におみやげをいっぱい持って現れ、父と昼食を共にしました。 それから3日して心臓発作による父の急逝の知らせを受けたでした。父は無意識の内に、自分の死を予感していたのでしょう。私は毎朝仏壇に燈明をあげ手を合わせているのですが、はじめの内は母の位牌は中央に祭り、父の位牌は端の方に祭っていたのですが、いつの頃から、そうだ父には天より与えられた父の役割があったのではないかと思うようになり、その時以来、両親の位牌を仲良く中央に並べるように致しました。 | -長女 誕生(3ヶ月)- |
次に私の生まれた地であり、平成6年に分院として開院した人形町の地について述べます。 昭和58年に蔵前に開院してまもなく、父方の伯父より人形町の土地を安く譲り受けたのが始まりで、平成2年には袋小路の裏の家から土地を売りたいという話があり、株がよかった事、当時の三菱銀行人形町支店も開店したてで貸し出し先を探していた事も重なり、裏の土地代と建築資金の借入を行いました。 ビルの完成は平成3年8月でそれはまさに景気が下降し始めた時期でしたが、幸いにも完成と同時に全フロアーのテナントが決まりました。 | -笠原歯科 蔵前医院にて- |
この人形町の地は私の祖父、祖母、父、母等の思いの篭った地であることを考えるにつけ、私を周りから支える縁のある多くの方々の力を感じないわけには参りません。 私はいろいろと回り道をした為、30歳までは一生の仕事を探し出す為の勉強の期間でした。 将来この人形町のビルを歯科関係の専門病院とし地域に役立てる事が、私の持つ夢であり役目と思い、信念を持って頑張るつもりです。今後ともどうぞ宜しくお願い致します。 | -平成3年人形町笠原ビル完成- |